派出看護婦・女中・派出婦・家政婦

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朝日新聞,1951,「全く引っぱりダコ――最近の家政婦看護婦」『朝日新聞』1951年12月13日夕刊: 2.

朝日新聞,1956,「未亡人に職を与える――中旬頃完成 家政婦育成補導所」『朝日新聞』1956年9月7日朝刊: 12.

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岩見照代監修,2016,『「婦人雑誌」がつくる大正・昭和の女性像』22(職業1),ゆまに書房.

岩見照代監修,2016,『「婦人雑誌」がつくる大正・昭和の女性像』23(職業2),ゆまに書房.

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日本臨床看護婦家政協会,1966-2000,『昭和41(-平成12)年度定期総会会議案』日本臨床看護婦家政婦組合協会.(計35巻)

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岡部忠昭,1999b「家業ではなく事業としての多角経営が求められている――(社)全日本民営職業紹介事業福祉協会常任理事藤田和雄さんに聞く」『財形福祉』25(9): 32-5.

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大分合同新聞社,1958,「女中さん なぜなりてが少い 自由な時間が少い 待遇はよくなったが」『大分合同新聞』1958年3月28日(夕刊): 2.

大分合同新聞社,1958,「女中さん ある傭主と女中の場合」『大分合同新聞』1958年3月28日(夕刊): 2.

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労働省婦人少年局編,1965,『家事サービス職業訓練教材 上巻』労働省婦人少年局.

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読売新聞,1953,「女中さん払底――”奉公”嫌うアプレ気質――求人側も虫がよすぎる」『読売新聞』1953年3月11日(朝刊): 8.

読売新聞,1953,「勉強したい―だが女中の身、余暇がない」『読売新聞』1953年3月22日(夕刊): 3.

読売新聞,1953,「足りぬ常識――”田舎出の女中”の悲しさ」『読売新聞』1953年4月26日(夕刊): 3.

読売新聞,1953,「辛い女中奉公――コキ使って暇もくれぬ」『読売新聞』1953年8月28日(夕刊): 3.

読売新聞,1954,「多い遺家族、未亡人――農村の不況から出稼ぎもふえた 職安登録者なら身分は確実」『読売新聞』1954年1月28日(朝刊): 5.

読売新聞,1954,「女中の勉学――内証で通信教育受ける」『読売新聞』1954年7月1日(夕刊): 3.

読売新聞,1954,「女中さんやぁーい――高給取りより間接支給を 大森職安の調べ」『読売新聞』1954年9月4日(朝刊): 8.

読売新聞,1954,「女中、住込み店員ヤーイ――地方の出稼ぎ まず新潟三職安と提携、受入れ(飯田橋職安)」『読売新聞』1954年9月23日(朝刊): 8.

読売新聞,1954,「”薄給”と虐待――いっそ職をやめ女中に」『読売新聞』1954年10月13日(夕刊): 3

読売新聞,1954,「秘密持つ女中――主人は浮気後冷たい態度」『読売新聞』1954年10月27日(夕刊): 3.

読売新聞,1954,「いっそ養女に――しかる両親、いばる女中」『読売新聞』1954年11月18日(夕刊): 3.

読売新聞,1954,「売春を強いられる女中――店を出たいが?」『読売新聞』1954年11月21日(朝刊): 6.

読売新聞,1955,「女中志望の娘――上京したいが方法は?」『読売新聞』1955年3月18日(夕刊): 5.

読売新聞,1955,「月給1800円――女中になって2年半」『読売新聞』1955年6月9日(夕刊): 3

全国民営職業紹介事業協会,1988,『民営職業紹介事業における事業者及び求職者に関する調査報告—看護婦・家政婦』全国民営職業紹介事業協会.

全日本労働総同盟,1967,「ある職場の表情57――田園調布派出看護婦家政婦労働組合の巻」『同盟』107: 68-73.












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